やまこみそ(金剛家)に伝わる不動明王立像

金剛家のルーツは寛永期(西暦1640年代)までさかのぼれます
明治初期に【やまこ味噌】は創業しましたが前身は龍光院という寺でした
その龍光院のご本尊であった不動明王が今に受け継がれてきたものです



田螺不動胎内納入品田螺不動明王について大聖不動明王尊(銀造仏)について田螺(たにし)不動のルーツ
不動明王について笠見家に伝わる古文書歴史年表なんでも鑑定団








金剛家の先祖龍光院について

守谷市笠見家の古文書によると
龍光院(金剛家の先祖)の先祖として正園坊という名のお坊さんの記述有り
この正園坊が亡くなったのは1647年という記録有り
龍光院(文治)は1664年に内守谷村より大山村に引っ越してきた記述有り
(1669年 検地帳の縄請け人の中に龍光院の記述有り)
その息子が龍宝院を名乗る
おふちは龍宝院の娘
その後、明治初期まで龍光院の名は検地帳他の古文書で確認できる(笠見家の文書より)

明治初期に火事で焼失
その後、やまこ味噌(金剛家)を創業して現在に至る




田螺不動胎内納入品

金剛家の田螺不動胎内納入品について

田螺不動明王修復のため胎内を開けたところ
次の5点の納入品が納められていた
1)田螺不動明王建立についての木書



原文:「ふたうふくせんほうと申者ニつくり申候、辰ノ五月」
解釈:「ふたうふくせんほう」は「不動ふくせん房」のことでしょう。
この仏像の作者と製作の年を示しているのでしょうか。
(名城大学教授 伊藤俊一氏)

帛:(はく)絹布
羂索:(けんさく)一端に金剛杵コンゴウシヨの半形をつけ、
   他端に鐶カンをつけた青・黄・赤・白・黒の
   5色線を撚ヨった索条。
   不動明王・不空羂索観音などの持つもので、
   衆生摂取の象徴とする。
   本来は鳥獣を捕るわな。
臂:(ひ)うで。かいな。
裳:(も)もすそ
2)銀造仏大聖不動明王尊



銀鋳造製(ムク 岩座共吹 光背なし)
像高 4.7 全高5.2cm
頭頂に沙けいを結い、総髪として、髪筋は刻まない。
両眼は天地眼か。
口を閉じる。
肩かけ条を掛け、左手垂下、羂索を握り、右手肘を張って
して剣を構え、折返し二段を着けて岩座上に直立する
日本では銀製の仏像はそれほど多くなく、
東大寺法華堂不空羂索観音宝冠の化仏阿弥陀如来立像、
興福寺東金堂本尊台座内から発見された仏手など
八世紀の作例が著名で、平安時代に銀仏が造られた
記録がしばしばみられるが
遺品は知られていない。
鎌倉時代では滋賀県浄厳院木造阿弥陀如来坐像(平安時代)の
胎内仏であった阿弥陀如来立像(重文)など幾つかの
作例が知られている。
銀造の不動像は5センチ程の小像であり、
細部の仕上げが殆ど行われていないため、
目鼻立ちや衣文などかなり大雑把であるが
体躯の均斉もよく中世彫刻の特徴がみられ、
15〜6世紀頃に制作されたと考えられる。
数少ない銀仏の貴重な作例である。
中世の鋳造仏は
鋳造家が原型まで制作することが多いが、
この像の原型は木造仏師が制作したものと想像される。
なお、この像は宝永7年の再興時に納められたものである。
(茨城大学名誉教授 田中義恭氏)
3)銀造仏大聖不動明王尊由来書



「大聖不動明王尊、御竹壱寸弐分、
弘法大師之御作と申伝候」
大聖不動明王尊(銀造仏の名称)
御竹壱寸弐分:寸法を表している一寸二分(約5cm弱)
弘法大師之御作と申伝候:弘法大師が作られたものとの
言い伝えである
寛永17年辰(西暦1641年)の5月
福泉坊が建立した
宝永7年庚寅(1711年)の7月
再興(修復)した

施主は龍宝院のおふち
仏師は源内
4)田螺不動明王再興書



「寛永17年 辰の5月 福泉坊建立仕候
 宝永7年 庚寅7月 さいこう仕候
 施主 おふち 龍宝院
 下総下妻群 太田村 大仏師源内」

5)月山牛王宝印



月山は修験道の聖地、出羽三山の一つの拠点です
月山
 月山神社の本殿は高峰月山の頂上に鎮座し、祭神は月読命である。
 月山が神として山そのものを尊崇し、頂上を「おむろ」というのは、
 神がお篭もりにになられる意で、月山が神体山であった名残であろう。
 関東のある地方では伊勢参宮を済ませると、
 必ず奥詣りと称して出羽三山詣をしなければならない風習があるという。
 これは、天照大神と月読命とが兄弟であることがその理由と思われる。
これらの納入品の保存状態は良好で傷みはほとんど見受けられない






金剛家の田螺不動明王について

田螺不動明王は桧の寄木造り
像の様式は左半眼いわゆる天地眼仕様、玉眼がはめ込まれている

胎内納入品古文書から
建立は寛永17年(1641年)、再興宝永7年(1711年)と記されている
施主龍宝院おふちは金剛家の先祖

金剛家口伝によると田螺不動は日本に三体在るとのこと
この三体が、新潟県の管谷寺(かんこくじ)、埼玉県の神明神社境内にある菅谷(すがたに)不動尊とあわせて三体なのか






大聖不動明王尊(銀造仏)について

銀造仏についての金属からの時代測定は困難
日本において銀造仏自体が非常に稀である
比重測定から純銀ではなく銅が混ざった銀合金であろう
銀造仏を包んでいた古文書には弘法大師の御作と伝えられるとのこと
底面には、なにやら掘り込みのような模様が見受けられる


時代背景
龍光院は寛永期に内守谷長野入りより大山へ引っ越してきたとの古文書有り

納入品の木書には
「ふどうふくせんぼうと申す者に・・・」とある
宝永年間に田螺不動明王再興する際に当時の龍宝院おふちが、この木書の内容を漢字にしたものとも思われる
「福泉坊建立仕候・・・・」(胎内納入品より)
龍光院は明治初期に火災で焼失廃寺となる

内守谷は水海道市にあり、市は親鸞上人ゆかりの土地である
その親鸞上人の直弟子24人の中に福泉坊道周がいる
福泉坊道周と水海道の関係は定かではない
現在の山梨県巨摩の本誓寺開祖である

青森県の義経伝説に、一寸二分の銀製仏像(大聖観音像)を兜に納め戦をしたとのこと
それが現義経寺(ぎけいじ)のご本尊の胎内にあるとのこと
当地守谷は平将門との縁深い土地柄、時代的に共通するかもしれない
共に、稀な銀仏でありその寸法も似ていることから義経銀仏の制作時期と同時期である可能性もある


措置

田螺不動明王の胎内より木片サンプルを採取
大聖不動明王底面より銀片サンプル採取
共に、後年、時代測定を明確にするために採取しておく
特に、大聖不動明王尊については、日本において稀な銀造仏であり
(銀造仏不動明王としては日本最古の可能性有り)
そのレプリカを三体作成する







参考

田螺不動尊について

田螺不動とは

菅谷不動
新潟県新発田市菅谷にある、鎌倉時代創建の菅谷寺(かんこくじ)の本尊不動明王の通称
眼病に霊験があるといわれる
不動尊像が「みたらせの滝」の中で、無数の田螺に守られて火災の難を逃れたとの伝承から
その滝壷の田螺を奉納し、滝水で目を洗って祈願する

菅谷寺(かんこくじ) 新潟県新発田市菅谷860 0254-29-2022 代表者 山岸一穂
新潟県新発田市菅谷にある真言宗醍醐寺派の寺院
本尊は不動明王
文治5年(1189)源頼朝の叔父護念が比叡山から逃れた際、無動寺の不動明王像の頭部を持参し
この地に至ったという
本尊は眼病に霊験ありとして信仰を集め卯年と酉年の開帳には多くの参詣者がある

埼玉県幸手市(さってし)中の神明神社境内にある菅谷(すがたに)不動尊の通称
安政年間(1854〜1860)に越後の菅谷不動を勧請したといい
眼病への効験により広く信仰されてきた
田螺を断って祈願し、治ったら人間の目に見立てた田螺の絵をかいた絵馬をあげる慣わしがある






不動明王について

梵名アチャラナータ。「動かない守護者」を意味し無不動、不動使者とも訳される。
また本来アチャラナータとは古代インドの守護神シヴァの異名である。
 忿怒身に姿を変え、衆生を教化し、悪を罰するだけではなく、
修行者を加護し修行を達成させる慈悲の存在でもあり、修験道においても崇拝される。
 その姿は結跏趺坐し、右手に降魔の剣、左手に羂索(縄)をとり背後に大火炎を燃え上がらせる。
平安時代まで両眼を大きく見開き、上歯を列出して下唇を噛むものが主流だったが、
十世紀に入り天台宗の安然の『不動立印儀軌修行次第』に「不動十九観」が説かれ、
左目をやや細め、右目を見開て天と地を睨む「天地眼」、
口元は右下の牙で上唇を、左下の牙で下唇を噛み合うものが主流になった。







古文書
笠見家(龍光院があった地域の庄屋であった)の文書より

乍恐口上之覚
大山村惣百姓申上候寛永年中当村始リ一色宮内様御知行之節十町歩之御林御座候・・・・・・
其節地敷之境を立置申候水神儀者古来より名主居山之端ニ祭り置申候右三ヶ所之仏神二十七年以前始而別当龍宝院と書上申候御事

右香取社地之内ニ村中より籠屋を作り筒戸村禅福寺弟子道心寮守ニ附置申候三十年以前右之寮守利永と申道心自分ニ而地蔵を禅善福寺開眼を
請寮仏ニ立置申候右之地蔵去年極月村中より再興士候而如前々禅福寺江開眼頼申候所ニ龍光院支配ニ候間罷成間敷由ニ而此度御訴訟申上候村中之社地ニ村中より
籠屋を作り寮守迄付置候寮仏之供養先例を破り新規ニ龍光院支配可仕と申さ段不被謂儀ニ奉存候其外・・・・

龍光院祖父文路と申者浪人者ニ而内守谷村龍王院と申山伏弟子ニ成罷有候所寛文四年辰年当村江引越差置申候
香取神宮之儀前々別当定茂無御座候所ニ二十七年以前牧野備前守様御知行ニ罷成候節村々堂社別当支配御尋御座候当村之儀多宝院と申
古来之山伏御座候得共先名主贔屓ヲ以龍光院を始而別当と書上させ申候然共支配とハ書上不申候当御代様ニ罷成候節も
御除地ニ而無御座候故地方御役所様へは無年貢地と書上候御事

十三年以前龍光院入峯仕候節父龍宝院先名主長兵衛方江申候ハ御除地又別当支配等之由緒書指上候得ハ醍醐ニ而寺山号頭載儀罷成事ニ候
間何とそ戸の此序由緒書いたし鳳閣寺迄差上くれ候へ由頼申候ニ付御上江偽り成儀難申上候殊ニ左様之事ハ内証ニ而ハ不罷成事ニ候所
関宿様江御願可申上様無之候間罷成間敷と申候得は我等一生之願望ニ候間当御地頭様御知行之内ハ密ゝニ可致候左候得は御上ヘハ露顕可致様も
無之候間此序ニ是非と願申ニ付先名主儀ハ手習指南之縁御座候而難遁存不及是悲ニ別当支配御除地由緒書古来之様ニ謀書を認鳳閣寺江差上申候依之香取山金剛寺と
寺山号申請其上其威ニ而張本ニも罷成候然ハ先名主重恩之山伏ニ御座候然所ニ此度右之謀書を証拠ニ仕御訴訟ニ罷出候段修験之本意とハ不奉在候先名主儀如何

寛永年中:1624年〜1644年
御林:幕府・諸藩が直接管理・保護した山林、建築、土木用材を提供し、木材を販売して領主の財政に資するほか、保安林的なもののあった
水神社:名主居山の端に祀る
籠家:籠堂。社寺に付属して、信者の参籠し祈念する堂
道心者:半僧半俗の下級宗教的職能者。寺などで下坊主などの役を務めた
浪人:職を離れた人
剋:且と同じ、そのうえ
除地:年貢を免除された土地
無年貢地:除地以外の社寺・道路・溜池等、公共の用務にかかわる土地
当代:現在の戸主、当主
指上:差し上げ
請取証文:農民が上納した年貢・運上などに対し、受け取った役人などから差し出された証文
入峯:修行のため、修験者が大和国吉野郡の大峯山に分け入ること
寺山号:比叡山延暦寺。高野山金剛峰寺のような、寺院の名称
頭載:頂戴?
此序:このついでに
由緒書:物事の由来を記した文書
醍醐:京都市伏見区醍醐寺?
関宿:領主の居城があった所
露顕:隠されていたものが明らかになること
指南:教え導くこと。手引き、師範
謀:計略・もくろみ
張本:悪事の企てを起こすもの
重恩:厚い恵み、重い恩沢
罷出:参上する
本意:まことの心






歴史
関宿領主西暦記事
板倉様
1664文治(龍光院の祖父)、当村へ引越
1669
1671
検地。御林内のほこらに香取明神を祀ること。お構えなし
久世様
香取社の地境を決め、年貢、村中で負担。村中支配
1680香取社籠家寮主、道心・利水、地蔵開眼(禅福寺)、寮仏とする
牧野様
1683村々堂社・別当支配御尋・先名主・長兵衛、「別当・龍宝院」と書上げ
1697先の名主・長兵衛、龍宝院(龍光院の父)の懇願により、謀書作成
久世様
1709地蔵再興開眼(筒戸村・禅福寺)。龍光院、異議・訴訟となる
1710龍光院・謀書を証拠として提出








なんでも鑑定団

2003年5月 人気TV番組のなんでも鑑定団に出演
田螺不動の鑑定をしていただきました

控え室で出場を待ちます

塩原の公民館で撮影が行われました

司会者の軽妙なトークが場内を笑わせました

おなじみの鑑定士の皆様

安岡先生が鑑定されました